十年間辛抱してみい――人を見る眼〈16〉
松下電器が九つの分社に分かれていた昭和十一年のこと。その分社の一つ、松下乾電池株式会社で、その年に配属された新入社員、三十五、六人が集められ、幸之助を囲む懇談会がもたれた。 その
煉物技術の公開――人を見る眼〈15〉
大正七、八年ごろ、ソケットやプラグ、扇風機の碍盤の材料はアスファルトや石綿、石粉などを調合してつくる煉物といわれるものであった。その煉物の技術は、今でいえば企業秘密、多くの工場で
しるこ屋をやれ!――人を見る眼〈14〉
昭和三十年ごろのことである。新型コタツの発売に踏み切った直後に、誤って使用されれば不良が出る恐れがあるとの結論が出て、市場からの全数回収が決定された。 その回収に奔走して
一年間何をしていたのか――人を見る眼〈13〉
入社して一年ほどで肋膜炎を患い、一カ月入院した青年社員が、社内新聞の編集担当部署に復職した。その一日目、青年はできあがったばかりの社内新聞を、幸之助のところへ届けるよう命じら
きみ、あんまり働きなや――人を見る眼〈12〉
昭和三十七年十月、松下電器は、台湾松下電器を現地資本と合弁で設立した。人員は百人あまり、主製品はラジオとステレオ。しかし、当初、経営は非常に厳しく、設立から約一年で資本金にほ
ウルトラCのトースター――人を見る眼〈11〉
バイメタル方式の自動トースターが開発されたときのことである。開発にあたった技術者二人が、試作品を持って本社の製品審査室に赴いた。審査室は新製品を検査する部署であるが、二人が廊
光秀になるなよ、秀吉を見習え――人を見る眼〈9〉
ある社員が、二人の上司のうち、信頼し慕っていたほうの上司に転勤命令が出たことに抗議するため、同志とはかって辞職願いを出した。大決心ではあったが、本心ではやめたくはなく、結局幸
電話での教育――人を見る眼〈8〉
ある若い社員が、灯器の工場長に任命された。赴任してから二週間のあいだ、毎日、朝夕二回、ときには夜中に自宅へ、幸之助から電話があった。 「きょう従業員はどうや、みんなで何人
きみならできる!――人を見る眼〈7〉
昭和二年、松下電器が初めてアイロンの開発を手がけたときのことである。幸之助は若い技術者を呼んで言った。 「今、アイロンというものを二、三の会社がつくっているが、使って
文句の多い職人――人を見る眼〈6〉
関東大震災のあった大正十二年もまもなく終わろうとしているころであった。幸之助が工場の鍛冶場に入っていくと、見なれぬ小柄な若い職人が旋盤を使っている。どこの人かと思って尋ねると
徹すれば神通力が――人を見る眼〈5〉
昭和三十五、六年のこと。当時の冷蔵庫の販売は、各メーカーが十月にその年の新製品をいっせいに発表、その展示会をディーラーが見てまわって注文するというかたちで行なわれていた。した