鬼門、気にせんとこ!――人生断章〈16〉
昭和八年、松下電器は、大阪の北東郊外に位置する門真村に新本店と工場群を建設し、事業の本拠を大開町から移した。大開町の工場では、日々の生産が追いつかなくなったからである。 寝
六十年間、ありがとう――人生断章〈15〉
一月十日。松下電器では毎年この日に経営方針発表会を行なっているが、とりわけ昭和五十三年のそれは、創業六十周年にあたることもあり、例年にも増して、意義深い日であった。 &nb
質屋の通い帳――人生断章〈14〉
あるとき、幸之助宅の蔵の中から一束の古い書類が出てきた。配線工として勤めていた大阪電灯会社時代に会社からもらった十数枚の昇給辞令や、給与の明細書、退社したときに受けた退職金の
区会議員選挙に当選――人生断章〈13〉
大正十四年、幸之助は町内から推され、大阪市の連合区会議員の選挙に立候補することになった。健康状態があまりよくないからと断わったが、「もう町内有志で決めたことでもあるし、選挙運
自分の頭をなでてやりたい――人生断章〈11〉
昭和四十八年七月、幸之助は会長を退任し、相談役に就任した。そのときの記者会見で、「今の感慨は?」と問われ、つぎのように答えた。 「まあ非常によかったという
父のひと言――人生断章〈10〉
幸之助が十一歳になったころ、それまで郷里の和歌山に住んでいた母と姉が、幸之助や父がいる関係で、大阪の天満に移ってきた。そして、姉は読み書きができたので、大阪貯金局に事務員とし
不正を働く者がいた――人生断章〈9〉
松下電器がまだ五十人くらいの規模のときのことである。 従業員のなかに工場の品物を外に持ち出すという不正を働く者が出た。 それは幸之助にとって初めての体験であった。
唯一無二の宝物――人生断章〈7〉
最初の奉公先の火鉢店が、幸之助が入って三カ月で店を閉めたため、幸之助は親方の知りあいの五代自転車商会に移った。大阪船場の堺筋淡路町。商都大阪でいちばんの商売の中心地である。幸
危機のなかの慰労会――人生断章〈6〉
昭和二十三年秋。松下電器はGHQから七項目に及ぶ制限を受け、再建もままならず危機に瀕していた。そんななかである日、幸之助は友人の邸宅の一部を借り、在阪の幹部数十名を招いてすき