信用を形に表わしてほしい――経営の姿勢〈16〉
松下電器が住友銀行と取引きを始めたのは、昭和二年のことである。新しくできた西野田支店の行員の熱心な勧誘にほだされて、取引きしてもよいという気になった幸之助は、そのとき一つの条件を
ラジオの特許を無償で公開――経営の姿勢〈15〉
昭和初期のことである。特許魔といわれる発明家がいて、アメリカの特許を先に読み取っては日本で登録し、それを売るというようなことをしていた。ラジオの重要部分の特許権もその人が所有
名優・幸之助――経営の姿勢〈14〉
昭和三十一年ごろのこと、研究所の課長が手狭になった施設を拡充する決裁をもらうべく、幸之助を訪ねた。幸之助は自室で別の社員の報告を聞いていた。隣の秘書室で課長が待機するうち、幸
大将というものは......――経営の姿勢〈13〉
幸之助には、いわゆる相談役ともいうべき人物がいた。真言宗の僧侶で、大正の終わり、幸之助が三十歳のころに、ふとしたことから知りあった。後年は、松下電器の中に小さな家を建て、そこ
過当競争は罪悪である――経営の姿勢〈12〉
昭和三十八年九月、ニューヨークで国際科学経営管理協議会(CIOS)主催の第十三回国際経営会議が、世界各国から三千人に及ぶ学者、実業人などを集めて開かれた。この会議に招かれた幸
経営理念を売ってほしい――経営の姿勢〈10〉
昭和四十四年六月、幸之助は、ヨーロッパ視察の途中、西ドイツのハンブルク市に立ち寄った。そして、ハンブルク松下電器を訪ね、そこで日本から出向している駐在員との懇談会をもった。そ
会社は公器や――経営の姿勢〈9〉
昭和三十年のこと、ある中堅幹部が幸之助から、当時松下電器が福岡市をはじめ各方面から強い要請を受けていた九州への工場進出の是非について意見を求められた。彼は、自分の思うとおり、
真実の声――経営の姿勢〈8〉
昭和三十年代の初め、松下電器有力連盟店の感謝大会が東京の日比谷公会堂で催された。東京および近郊の各地区から約二千名が集まり、会場は一、二階とも満席。内輪の感謝会であり、弁当も
きみはどの道を歩いてきた――経営の姿勢〈6〉
昭和三十三年ごろのことである。経営状況の報告のために本社に呼ばれた扇風機事業部長は、幸之助に、 「先月の決算はどうか」 ときかれ、胸を張って答えた。 「赤字です」
自分ばかりしゃべりはった――経営の姿勢〈5〉
昭和三十六年秋、幸之助が九州のある取引先の工場を訪れたときのこと。三十分ほど工場を見学し、そのあと社長、工場長と十分間ほど歓談した。 帰りの車中で幸之助は、随行していた九