初めての新聞広告――仕事を見る眼〈16〉
昭和二年四月、画期的なナショナルランプが誕生したとき、幸之助は、ランプ一万個を市場に見本として無償で配布するという大胆な販売方法をとったが、それでもまだ十分ではないと考え、新
血の出る首をくれ!――仕事を見る眼〈15〉
撹拌式や噴流式が開発され、電気洗濯機がようやく家庭に普及しようとしていたころ、松下電器はこの分野で他社に後れをとっていた。台所革命、家庭電化の、いわば尖兵を務める洗濯機で立ち
工場経営の基本――仕事を見る眼〈14〉
まだ戦後の混乱のさなかにあった昭和二十二年暮れのことである。たまたまその年は十二月二十五日の大正天皇祭をはさんで年末まで、飛び石で休日が続いていた。そこでいくつかの製造所から
きみ、座布団が裏返しや――仕事を見る眼〈13〉
京都東山山麓の真々庵、現在はパナソニックグループの迎賓館になっているが、もとは幸之助の別邸で、昭和三十六年から四十二年までPHP研究所の本拠でもあったところである。ここに幸之
いくら薄いラジオでも――仕事を見る眼〈12〉
ラジオがどんどん小型になり、その競争が激しく展開されていたころの話である。ラジオ事業部の事業部長と技術責任者が、開発中の超薄型ラジオを持って幸之助を訪ねた。ラジオの大きさは名
不要な書類を一気に廃止――仕事を見る眼〈11〉
昭和三十九年七月、熱海で行なわれた販売会社・代理店社長懇談会(通称熱海会談)のあと、幸之助は会長でありながら、営業本部長代行として第一線に復帰し、経営の改革にあたっていたが、
時は金なり――仕事を見る眼〈10〉
昭和二十年代の中ごろ、ナショナルラジオの音質について、芳しくない評判があったときのことである。東京に社用で赴いた幸之助は、代理店の人たちから、“松下のラジオは、ど
仕事も遊びもいっしょや――仕事を見る眼〈9〉
昭和六年春、大阪天王寺公園のグラウンドを借り切って、松下電器の歩一会(※)は第一回運動会を挙行した。前夜十時ごろのことである。テントの布設など会場の準備を万端整えてひと息つい
濃いリンゴジュース――仕事を見る眼〈8〉
ミキサーの商品試験に幸之助が立ち会ったときの話である。 担当者が、コップ一杯の水にリンゴ一個を使い、説明書どおりの分量でジュースをつくった。それを試飲したあと、幸之助は、
神さんのデザイン――仕事を見る眼〈7〉
昭和三十年ごろ、テレビの新製品を出すに先立って、役員会が開かれた。テレビ事業部の担当者が、五、六台のテレビを持ち込み、検討が始まった。みな新しいデザインの新製品である。重役の
変えていいことと、いけないこと――仕事を見る眼〈6〉
昭和四十年代の初め、毎年発行部数を伸ばしてきたPHP研究所の月刊誌『PHP』が、百万部を超えて、その伸びがいくぶん鈍ってきたときのことである。編集がマンネリになったからではな
とどめをさす――仕事を見る眼〈5〉
昭和二十年代後半、松下電器東京特販部は、生産販売を始めたばかりの電気冷蔵庫を、当時日本一といわれていたデパートに納入すべく懸命の努力を重ねていた。 当時、そのデパートの電