この土地、全部わしのもんや――繁栄への発想〈16〉
ある日、幸之助は京都洛西にある鮎料理で有名な料亭を訪ねたが、部屋に入ってすぐ同行の青年にこう言った。「きみな、このあたりの土地は全部わしのもんやで」「ほんとうですか。へえー」
赤字とネオン代――繁栄への発想〈15〉
昭和三十一年、九州松下電器はゼロから出発した。数年は利益が出ず、赤字の累積額は資本金の数倍にも達した。年二回、幸之助に決算報告をする担当責任者は、いつも申しわけない気持ちでい
天馬空を往く――繁栄への発想〈14〉
昭和四十年の大晦日、幸之助はNHKの「紅白歌合戦」の審査員席についていた。絢爛豪華な美しい舞台に、次々に歌手が登場して歌う。そんな歌手一人ひとりに拍手を送っていると、二時間四
石炭にきいてみよう――繁栄への発想〈13〉
戦後の混乱のなかで、“どうして万物の霊長といわれる人間が、このように苦しんでいるのか”という疑問から、幸之助は、昭和二十一年十一月、PHP研究所を設立
こけたら立たなあかんねん――繁栄への発想〈12〉
昭和九年九月二十一日、四国、近畿地方を中心に、気象観測所始まって以来の大型台風が吹きあれた。室戸台風である。 その爪痕は深く、死者・行方不明者三千人、負傷者一万五千人、家
自分の金やったらかなわんけれど......――繁栄への発想〈11〉
幸之助が独立してまだまもないころ、税金は、大きな事業をやっているところは税務署のほうから調査に来るが、小さなところは申告者を信用して、その申告した金額に応じて納めるというよう
女性も入れよう――繁栄への発想〈10〉
幸之助が私財七十億円を投じて神奈川県茅ヶ崎に「松下政経塾」をつくったのは、昭和五十四年六月のことであった。 設立を前に、ある新聞社の女性記者がインタビューをして、「女性は
画期的な販売法――繁栄への発想〈9〉
幸之助は幼いころ自転車店で奉公していた関係もあって、独立してからのち、常々何か自転車用品をつくってみたいと思っていたが、夜間、自転車を走らせていると、ロウソクや灯油のランプの
二十八歳の技師長――繁栄への発想〈7〉
昭和二十六年の一月から四月まで、幸之助は初めてアメリカに渡り、滞在した。そのとき、ある会社の機械工場を訪ね、四、五十歳くらいの三人の技師たちと話しあう機会を得た。いろいろと話
モーターは無限に伸びる――繁栄への発想〈6〉
昭和九年十一月、松下電器は新しい事業分野である小型モーターの生産販売を開始した。 当時のモーター業界は、第一次世界大戦で急速に伸び、昭和四、五年の不況でいっそう地盤を固め
まず国内を満たしてから――繁栄への発想〈5〉
第二次世界大戦後六年たった昭和二十六年秋、幸之助はヨーロッパを訪ね、ドイツのハンブルクのホテルで宿泊した。崩れた建物がそのままになっているなど、街には戦後の匂いがまだ相当に残