涙の熱海会談――共存共栄への願い〈17〉
昭和三十九年当時といえば、各業界とも深刻な不況に直面しつつあった。電機業界もその例外ではなく、全国の松下電器系列の販売会社、代理店も厳しい状況にあるという。ただならぬ事態を察知し
借金依頼を断わって感謝される――共存共栄への願い〈16〉
かつて金融が逼迫して、いわゆる金づまりのおりに、ある友人が、五千万円ほど融通してほしいと、幸之助のところに頼みに来た。 話を聞いてみると、売掛金の回収が思うようにいかず、銀行に
仕事の目的は......――共存共栄への願い〈15〉
昭和十四、五年ごろのこと。九州営業所の二十代の若い所長が、ある月、目標を立てて、こう所員に呼びかけた。 「ともかくこの月のこの目標をなんとしても達成しよう。達成するまでは
労組結成大会での祝辞――共存共栄への願い〈14〉
終戦直後の民主化の波のなか、各地で労働組合が生まれつつあった。昭和二十一年一月、松下電器においても労働組合が結成され、その結成大会が大阪中之島の中央公会堂で開かれた。 &n
髪型も会社の看板――共存共栄への願い〈13〉
幸之助は、忙しいスケジュールのあいまをぬって、十日か二週間に一回は散髪することにしていたが、これには一つのきっかけがあった。 昭和三十年ごろ、東京銀座のあ
混乱の渦中でも公正を守る――共存共栄への願い〈12〉
戦争直後の松下電器と幸之助は、制限会社としての指定、財閥家族としての指定など七項目に及ぶ制約を受けて、思うように仕事ができない状態であった。 一方、世の中のインフレは進み
いくらで売ったらいいでしょう――共存共栄への願い〈11〉
幸之助が初めてソケットを考案製造したときのことである。ソケットをつくりはしたが、いわばまったくの素人、それをいくらで売っていいかがわからない。 そこで幸之助は、さっそく、
人情に厚く人情に流されない――共存共栄への願い〈10〉
昭和二年に新設した電熱部は、幸之助が同じ大開町に住む友人である米屋の主人と共同出資のかたちで始めたものである。当初その経営は友人が受け持った。 しかし、電熱部はスーパーア
手にあまるほどの名刺――共存共栄への願い〈9〉
昭和十年、個人企業から株式会社に改組した松下電器は、すでに従業員五千人に近い大企業に成長していた。 そのころある工場の主任が、電話で幸之助に呼び出された。 「どや、し
みんなお得意さん――共存共栄への願い〈8〉
教育界、宗教界、行政界を経て松下電器に入社した、労政担当の幹部の話である。彼は入社のときすでに四十代の半ばに達していたが、新たな気持ちで仕事に取り組む決意を固め、その手初めに
反対者も協力者に――共存共栄への願い〈7〉
昭和四十年。二月から新販売体制をスタートさせることになった松下電器の各地区営業所長は、販売会社、販売店の理解を得るために奔走していた。 いよいよスタートも間近というあ
きみは代理店の番頭やで――共存共栄への願い〈6〉
東京のある代理店が倒産した。東京営業所長は、直ちに再建策をつくって奔走したが、それまで懸命に手伝いをしてきた会社の倒産であっただけに、裏切られたような気がして、代理店の社長を