きみはなぜ学校を出られたか――共存共栄への願い〈4〉
ある課長を、工場長に任命したときの話である。最近の仕事のことなどについてひとしきり懇談していたが、幸之助は突然話題を変えて、こんなことをきいた。 「ところできみ、学校
世間が待ってくれるか――繁栄への発想〈4〉
ある事業部の経営がなかなかうまくいかず、事業部長が交代して立て直しをはかることになった。新任の事業部長は幸之助に、「いろいろ実態を調べましたが、これは必ずよくなります。だから
ネコとネズミ――経営の姿勢〈4〉
戦後の復興に取り組んでいたころ、松下電器が五十万本の真空管の月産に成功して、当時、真空管メーカーではトップであったT社の四十五万本を五万本上回って日本一となったことがあった。
電池が語りかけてくる――仕事を見る眼〈4〉
第二次世界大戦後の混乱期には、原材料も乏しく、乾電池にも不良が出ることがしばしばあった。 そんなある日、乾電池工場を訪れた幸之助は、責任者から不良が出る状況について説明を
おれは運が強いぞ――人生断章〈4〉
幸之助は、十五歳のとき、町を走る市電を見て電気事業にひかれ、六年近く勤めた五代自転車商会をやめた。そして大阪電灯会社への入社を志願するが、欠員が出るまでの三カ月間、セメント会
おまえまでが......――人を見る眼〈3〉
松下電器の社員が五十名くらいになっていた、夏の暑い日であった。その日のうちに、どうしても仕上げてしまわなければならない仕事があって、五、六人の社員が幸之助から残業を命じられて
従業員のことを思うと......――情を添える〈3〉
大正十四年、幸之助は近隣の人たちの推薦を受けて、大阪市の連合区会議員の選挙に立候補、当選したが、その選挙運動を通じて十七歳年長のある区会議員の知遇を得た。 ある日、幸
万国博の日傘――共存共栄への願い〈3〉
昭和四十五年に開かれた大阪万国博覧会の松下館は、会期中、七百六十万人という入場者でにぎわったが、開館まもないある日、つぎのようなことがあった。 入場者の整理のため、入館待
雨が降ったら......――繁栄への発想〈3〉
幸之助が会長になってまもないころ、ある新聞記者が取材に訪れて、こう質問した。 「松下さん、あなたの会社は急速な発展を遂げてこられましたが、どういうわけでそ
初めての東京出張――経営の姿勢〈3〉
商売を始めてまもないころ、幸之助は当時つくっていた二灯用差し込みプラグを東京でも売りたいと考えた。 そこで、それまで一度も行ったことのない東京へ出かけ、地図を片手に一日中
五銭白銅の感激――人生断章〈3〉
幸之助は九歳のとき、単身大阪に奉公に出たが、最初の奉公先は、八幡筋の宮田火鉢店であった。親方と何人かの職人が火鉢をつくり、それを店頭で売るという半職半商の商店で、ここで、朝早