授業料出してんか――人を見る眼〈4〉
昭和八年七月、松下電器門真本店竣工。次いで九月、第十一、十二工場完成。来賓を招待し、三日間にわたって披露をすることになった。 新工場群の一隅に、柔・剣道の道場として尚武館
長男を亡くした親友への励まし――情を添える〈4〉
親しくつきあっていた製菓会社の社長の長男が、昭和二十五年、三十九歳の若さで急死した。次男、長女もすでに亡くなっており、たった一人残った長男はまさに社長にとっての宝物であった。
きみはなぜ学校を出られたか――共存共栄への願い〈4〉
ある課長を、工場長に任命したときの話である。最近の仕事のことなどについてひとしきり懇談していたが、幸之助は突然話題を変えて、こんなことをきいた。 「ところできみ、学校
世間が待ってくれるか――繁栄への発想〈4〉
ある事業部の経営がなかなかうまくいかず、事業部長が交代して立て直しをはかることになった。新任の事業部長は幸之助に、「いろいろ実態を調べましたが、これは必ずよくなります。だから
ネコとネズミ――経営の姿勢〈4〉
戦後の復興に取り組んでいたころ、松下電器が五十万本の真空管の月産に成功して、当時、真空管メーカーではトップであったT社の四十五万本を五万本上回って日本一となったことがあった。
電池が語りかけてくる――仕事を見る眼〈4〉
第二次世界大戦後の混乱期には、原材料も乏しく、乾電池にも不良が出ることがしばしばあった。 そんなある日、乾電池工場を訪れた幸之助は、責任者から不良が出る状況について説明を
おれは運が強いぞ――人生断章〈4〉
幸之助は、十五歳のとき、町を走る市電を見て電気事業にひかれ、六年近く勤めた五代自転車商会をやめた。そして大阪電灯会社への入社を志願するが、欠員が出るまでの三カ月間、セメント会
おまえまでが......――人を見る眼〈3〉
松下電器の社員が五十名くらいになっていた、夏の暑い日であった。その日のうちに、どうしても仕上げてしまわなければならない仕事があって、五、六人の社員が幸之助から残業を命じられて
従業員のことを思うと......――情を添える〈3〉
大正十四年、幸之助は近隣の人たちの推薦を受けて、大阪市の連合区会議員の選挙に立候補、当選したが、その選挙運動を通じて十七歳年長のある区会議員の知遇を得た。 ある日、幸
万国博の日傘――共存共栄への願い〈3〉
昭和四十五年に開かれた大阪万国博覧会の松下館は、会期中、七百六十万人という入場者でにぎわったが、開館まもないある日、つぎのようなことがあった。 入場者の整理のため、入館待
雨が降ったら......――繁栄への発想〈3〉
幸之助が会長になってまもないころ、ある新聞記者が取材に訪れて、こう質問した。 「松下さん、あなたの会社は急速な発展を遂げてこられましたが、どういうわけでそ