心のこもったお弁当――情を添える〈9〉
昭和三十三年五月、幸之助が工場建設候補地の検分のため、神奈川県湘南地区を訪れた。辻堂工場と蓄電池工場の責任者が案内役を務めて、何カ所かを丹念に調べ、終わった時刻は十二時を少し
手にあまるほどの名刺――共存共栄への願い〈9〉
昭和十年、個人企業から株式会社に改組した松下電器は、すでに従業員五千人に近い大企業に成長していた。 そのころある工場の主任が、電話で幸之助に呼び出された。 「どや、し
画期的な販売法――繁栄への発想〈9〉
幸之助は幼いころ自転車店で奉公していた関係もあって、独立してからのち、常々何か自転車用品をつくってみたいと思っていたが、夜間、自転車を走らせていると、ロウソクや灯油のランプの
会社は公器や――経営の姿勢〈9〉
昭和三十年のこと、ある中堅幹部が幸之助から、当時松下電器が福岡市をはじめ各方面から強い要請を受けていた九州への工場進出の是非について意見を求められた。彼は、自分の思うとおり、
仕事も遊びもいっしょや――仕事を見る眼〈9〉
昭和六年春、大阪天王寺公園のグラウンドを借り切って、松下電器の歩一会(※)は第一回運動会を挙行した。前夜十時ごろのことである。テントの布設など会場の準備を万端整えてひと息つい
不正を働く者がいた――人生断章〈9〉
松下電器がまだ五十人くらいの規模のときのことである。 従業員のなかに工場の品物を外に持ち出すという不正を働く者が出た。 それは幸之助にとって初めての体験であった。
電話での教育――人を見る眼〈8〉
ある若い社員が、灯器の工場長に任命された。赴任してから二週間のあいだ、毎日、朝夕二回、ときには夜中に自宅へ、幸之助から電話があった。 「きょう従業員はどうや、みんなで何人
みんなお得意さん――共存共栄への願い〈8〉
教育界、宗教界、行政界を経て松下電器に入社した、労政担当の幹部の話である。彼は入社のときすでに四十代の半ばに達していたが、新たな気持ちで仕事に取り組む決意を固め、その手初めに
真実の声――経営の姿勢〈8〉
昭和三十年代の初め、松下電器有力連盟店の感謝大会が東京の日比谷公会堂で催された。東京および近郊の各地区から約二千名が集まり、会場は一、二階とも満席。内輪の感謝会であり、弁当も
濃いリンゴジュース――仕事を見る眼〈8〉
ミキサーの商品試験に幸之助が立ち会ったときの話である。 担当者が、コップ一杯の水にリンゴ一個を使い、説明書どおりの分量でジュースをつくった。それを試飲したあと、幸之助は、