時は金なり――仕事を見る眼〈10〉
昭和二十年代の中ごろ、ナショナルラジオの音質について、芳しくない評判があったときのことである。東京に社用で赴いた幸之助は、代理店の人たちから、“松下のラジオは、ど
父のひと言――人生断章〈10〉
幸之助が十一歳になったころ、それまで郷里の和歌山に住んでいた母と姉が、幸之助や父がいる関係で、大阪の天満に移ってきた。そして、姉は読み書きができたので、大阪貯金局に事務員とし
光秀になるなよ、秀吉を見習え――人を見る眼〈9〉
ある社員が、二人の上司のうち、信頼し慕っていたほうの上司に転勤命令が出たことに抗議するため、同志とはかって辞職願いを出した。大決心ではあったが、本心ではやめたくはなく、結局幸
心のこもったお弁当――情を添える〈9〉
昭和三十三年五月、幸之助が工場建設候補地の検分のため、神奈川県湘南地区を訪れた。辻堂工場と蓄電池工場の責任者が案内役を務めて、何カ所かを丹念に調べ、終わった時刻は十二時を少し
手にあまるほどの名刺――共存共栄への願い〈9〉
昭和十年、個人企業から株式会社に改組した松下電器は、すでに従業員五千人に近い大企業に成長していた。 そのころある工場の主任が、電話で幸之助に呼び出された。 「どや、し
画期的な販売法――繁栄への発想〈9〉
幸之助は幼いころ自転車店で奉公していた関係もあって、独立してからのち、常々何か自転車用品をつくってみたいと思っていたが、夜間、自転車を走らせていると、ロウソクや灯油のランプの
会社は公器や――経営の姿勢〈9〉
昭和三十年のこと、ある中堅幹部が幸之助から、当時松下電器が福岡市をはじめ各方面から強い要請を受けていた九州への工場進出の是非について意見を求められた。彼は、自分の思うとおり、
仕事も遊びもいっしょや――仕事を見る眼〈9〉
昭和六年春、大阪天王寺公園のグラウンドを借り切って、松下電器の歩一会(※)は第一回運動会を挙行した。前夜十時ごろのことである。テントの布設など会場の準備を万端整えてひと息つい
不正を働く者がいた――人生断章〈9〉
松下電器がまだ五十人くらいの規模のときのことである。 従業員のなかに工場の品物を外に持ち出すという不正を働く者が出た。 それは幸之助にとって初めての体験であった。
電話での教育――人を見る眼〈8〉
ある若い社員が、灯器の工場長に任命された。赴任してから二週間のあいだ、毎日、朝夕二回、ときには夜中に自宅へ、幸之助から電話があった。 「きょう従業員はどうや、みんなで何人
みんなお得意さん――共存共栄への願い〈8〉
教育界、宗教界、行政界を経て松下電器に入社した、労政担当の幹部の話である。彼は入社のときすでに四十代の半ばに達していたが、新たな気持ちで仕事に取り組む決意を固め、その手初めに