髪型も会社の看板――共存共栄への願い〈13〉
幸之助は、忙しいスケジュールのあいまをぬって、十日か二週間に一回は散髪することにしていたが、これには一つのきっかけがあった。 昭和三十年ごろ、東京銀座のあ
石炭にきいてみよう――繁栄への発想〈13〉
戦後の混乱のなかで、“どうして万物の霊長といわれる人間が、このように苦しんでいるのか”という疑問から、幸之助は、昭和二十一年十一月、PHP研究所を設立
大将というものは......――経営の姿勢〈13〉
幸之助には、いわゆる相談役ともいうべき人物がいた。真言宗の僧侶で、大正の終わり、幸之助が三十歳のころに、ふとしたことから知りあった。後年は、松下電器の中に小さな家を建て、そこ
きみ、座布団が裏返しや――仕事を見る眼〈13〉
京都東山山麓の真々庵、現在はパナソニックグループの迎賓館になっているが、もとは幸之助の別邸で、昭和三十六年から四十二年までPHP研究所の本拠でもあったところである。ここに幸之
区会議員選挙に当選――人生断章〈13〉
大正十四年、幸之助は町内から推され、大阪市の連合区会議員の選挙に立候補することになった。健康状態があまりよくないからと断わったが、「もう町内有志で決めたことでもあるし、選挙運
きみ、あんまり働きなや――人を見る眼〈12〉
昭和三十七年十月、松下電器は、台湾松下電器を現地資本と合弁で設立した。人員は百人あまり、主製品はラジオとステレオ。しかし、当初、経営は非常に厳しく、設立から約一年で資本金にほ
外国語がわからんので......――情を添える〈12〉
昭和十年から数年にわたって、幸之助は、今でいう社内誌にあたる『歩一会会誌』という小冊子に、みずからの生いたち、事業の変遷などを書きつづっていた。大阪の門真から、そのころ幸之助
混乱の渦中でも公正を守る――共存共栄への願い〈12〉
戦争直後の松下電器と幸之助は、制限会社としての指定、財閥家族としての指定など七項目に及ぶ制約を受けて、思うように仕事ができない状態であった。 一方、世の中のインフレは進み
こけたら立たなあかんねん――繁栄への発想〈12〉
昭和九年九月二十一日、四国、近畿地方を中心に、気象観測所始まって以来の大型台風が吹きあれた。室戸台風である。 その爪痕は深く、死者・行方不明者三千人、負傷者一万五千人、家
過当競争は罪悪である――経営の姿勢〈12〉
昭和三十八年九月、ニューヨークで国際科学経営管理協議会(CIOS)主催の第十三回国際経営会議が、世界各国から三千人に及ぶ学者、実業人などを集めて開かれた。この会議に招かれた幸
いくら薄いラジオでも――仕事を見る眼〈12〉
ラジオがどんどん小型になり、その競争が激しく展開されていたころの話である。ラジオ事業部の事業部長と技術責任者が、開発中の超薄型ラジオを持って幸之助を訪ねた。ラジオの大きさは名