真々庵開所式と第1回朝食会――PHP活動〈26〉
昭和25(1950)年8月以降、活動を主に月刊誌『PHP』発行のみに留めていたPHP研究所は、松下幸之助が松下電器社長を退いた後、昭和36(1961)年8月18日に研究活動を
昭和29年『PHP』休刊の危機――PHP活動〈25〉
昭和29(1954)年8月、月刊誌『PHP』は長期休刊となることが決定されました。同月25日に松下幸之助が顧問の三辺長治氏に宛てた手紙には、「今まで月刊で出しておりましたPH
PHP沖縄研究所の設立――PHP活動〈24〉
PHP研究所は昭和26(1951)年、沖縄への進出を計画したことがありました。今日『PHP沖縄研究所設立要請書』という資料が残っています。
「緊急経営方針」によるPHP運動の「第二段階」――PHP活動〈23〉
松下幸之助は、松下電器産業株式会社社長として、昭和25(1950)年7月17日「緊急経営方針」を社員に発表しました。「朝鮮の嵐が身近に吹きすさぶ現状」(=朝鮮戦争)を踏まえて
「人間宣言」と18人の有識者の短評――PHP活動〈22〉
月刊誌『PHP』は第50号(昭和26〔1951〕年9月発行)を記念して、松下幸之助による「人間の天命」という文章を掲載しました(※1)。幸之助は、「PHPの立場から、一つ人間
「観光立国の弁」とその反応――PHP活動〈21〉
昭和29(1954)年、松下幸之助は、『文藝春秋』5月号に「観光立国の弁」と題する一文を発表しました(上写真)。これに関連する資料がPHP研究所に残されており、論考を発表する
初期PHP研究所 最後の顧問 三辺長治――PHP活動〈20〉
初期のPHP研究所で、もっとも長く顧問を務めた人物に、三辺長治(みなべ・ちょうじ、1886~1958)という人がいました。富山県出身で、金沢の第四高等学校に進学し、当時同校の
東京と名古屋のPHP定例研究講座――PHP活動〈19〉
昭和23(1948)年2月23日、大阪市中之島の大阪府立図書館で第1回PHP定例研究講座が開催されました。これは松下幸之助が中心となって作成した「PHPのことば」を発表して聴
幻の商品「ハピーライト」――PHP活動〈18〉
初期のPHP研究所では、活動資金を獲得するため、停電時の非常灯「ハピーライト」を販売しました(写真)。『PHP』昭和23(1948)年2月号40頁では、「今日の生活を現実に豊
「PHP劇団」の構想――PHP活動〈17〉
『PHP』の編集長を長く務めた錦茂男所員は、研究所の初期の活動において、「PHP劇団」をつくって、理念を「芝居で見せよう」という構想があったと述べています(※1)。一見すると
和歌山支部と松下幸之助の活動――PHP活動〈16〉
初期のPHP活動において、和歌山は松下幸之助がもっとも多く足を運んだ場所の一つでした。自身の故郷への関心が、PHP活動においても高かったことがうかがえます。
「今までにない同志的雰囲気」・・・NHK大阪――PHP活動〈15〉
最初期からPHP友の会の結成に強い意欲を示した団体として、NHK大阪中央放送局をあげることができます。昭和22(1947)年1月7日、松下電器本社第一会議室で開催された第35