松下幸之助のPHP活動

京都駅八条口の前史――PHP活動〈65〉

 PHP研究所京都本部の社屋は、昭和42(1967)年11月、京都市南区西九条北ノ内町で竣工を迎えました。さかのぼって京都駅八条口(南口)の歴史を踏まえると、松下幸之助がこの地

松下幸之助のPHP活動

「青春」の言葉の作成――PHP活動〈64〉

 松下幸之助が座右の銘にした『青春』の言葉は、昭和40(1965)年12月に作成されました。12月8日、京都東山山麓真々庵におけるPHP研究会で、幸之助はサミュエル・ウルマンの詩を

松下幸之助のPHP活動

松下政経塾の最初の構想――PHP活動〈63〉

 昭和40(1965)年12月3日、松下幸之助はPHP研究所(京都東山山麓・真々庵)における研究会で、松下政経塾の原型となる「新政治研究所」について初めて検討しました。この時の

松下幸之助のPHP活動

研究活動と真々庵の役割の変化――PHP活動〈62〉

 熱海会談が開かれた昭和39(1964)年7月以降は、PHP研究所の研究活動にさまざまな変化が表れるようになりました。これまでのような活動ができなくなった面も見られ、やがて京都

松下幸之助のPHP活動

実業家を引き合わせた「辯天様」――PHP活動〈61〉

 真言宗系の新宗教である辯天宗は、松下幸之助が交流を持った宗教団体でした。昭和39(1964)年4月29日に真々庵で行われた『LIFE』誌のインタビューで辯天宗について質問され

松下幸之助のPHP活動

国立京都国際会館で協働した高山義三――PHP活動〈60〉

 京都市長、国立京都国際会館館長を歴任した高山義三(ぎぞう)氏(1892~1974・写真)は、京都市の観光事業を中心に、松下幸之助と長年にわたって交流を持った人物でした。晩年に

松下幸之助のPHP活動

17万部が贈呈された『道徳は実利に結びつく』――PHP活動〈59〉

 昭和40(1965)年4月13日に真々庵で開かれた研究会で、松下幸之助は太平洋戦争の終結と昭和天皇について述べました。「戦争の終結にしても天皇がいなければなされなかったかもし

松下幸之助のPHP活動

国立京都国際会館 初代理事長に就任――PHP活動〈58〉

 国立京都国際会館は、世界に通用する国際会議場が日本にも必要であるとして、岸信介内閣が昭和32(1957)年11月8日に建設を閣議決定しました。理事長には「海外にも名の通った実

松下幸之助のPHP活動

太田垣士郎との交流と追悼――PHP活動〈57〉

 太田垣士郎氏は明治27(1894)年2月、兵庫県城崎郡城崎町生まれ。京都帝国大学経済学部を卒業後、阪神急行電鉄で小林一三氏の薫陶を受け、後に関西電力社長に就任して黒部川第四発

松下幸之助のPHP活動

松下政経塾の原型「新日本政治研究所」の発表――PHP活動〈56〉

 昭和41(1966)年8月24日、真々庵で行われた研究会で松下幸之助は「この前に野田(一夫)さんに聞いたけど、……大学生が十人寄って将来の話をした

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パンフレット『政治に生産性を!』――PHP活動〈55〉

真々庵において研究活動を再開してからしばらくの間、研究テーマは宇宙根源の力や宗教、人間性などが中心でした。松下幸之助は昭和38(1963)年8月13日の研究会で、「社会面から追

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野村吉三郎の逝去――PHP活動〈54〉

 戦前から和歌山県人会で交流があった元海軍大将の野村吉三郎氏は、松下幸之助が最も尊敬した人物の一人でした。PHP研究所の記録にも、しばしば野村氏の名前が見えます。