アポロ11号の月面着陸に意見広告――PHP活動〈71〉
昭和44(1969)年7月20日、アメリカのアポロ11号が月面着陸に成功しました。これを受けて、松下幸之助は「PHP研究所創設者(Founder of PHP Institute
センチュリー作戦の展開――PHP活動〈70〉
月刊誌『PHP』を100万部に向けて普及する活動は、「センチュリー作戦」と呼ばれました。これは"明治元(1868)年10月23日、明治天皇即位による改元が行われてから満100年に
月刊誌『PHP』の自動販売機――PHP活動〈69〉
月刊誌『PHP』は一時期、自動販売機によって普及されたことがありました。昭和41(1966)年5月ごろ、大阪梅田・阪神百貨店の「電化センター」に第1号機が設置されています(右写真
月刊誌『PHP』普及のための「軒なみ作戦」――PHP活動〈68〉
PHP研究所は、昭和43(1968)年、月刊誌『PHP』を社会へ広く普及するため、区域を定めて1軒残らず訪問する「軒なみ作戦」と呼ばれる営業方法を採りました。頭文字を取って「N作
新築工事修祓式の開催――PHP活動〈67〉
昭和42(1967)年11月15日、PHP研究所のビルは、竣工を迎えました。アルバム『PHP研究所新築工事修祓式』が残っており、式の詳細を知ることができます。
地鎮祭・土地に対する礼を開催――PHP活動〈66〉
PHP研究所は、京都駅八条口に社屋を建設すべく、昭和42(1967)年3月9日、北ノ内町で「土地に対する礼」を行いました。一般でいう地鎮祭であり、PHP研究所では、独自の様式
京都駅八条口の前史――PHP活動〈65〉
PHP研究所京都本部の社屋は、昭和42(1967)年11月、京都市南区西九条北ノ内町で竣工を迎えました。さかのぼって京都駅八条口(南口)の歴史を踏まえると、松下幸之助がこの地
「青春」の言葉の作成――PHP活動〈64〉
松下幸之助が座右の銘にした『青春』の言葉は、昭和40(1965)年12月に作成されました。12月8日、京都東山山麓真々庵におけるPHP研究会で、幸之助はサミュエル・ウルマンの詩を
松下政経塾の最初の構想――PHP活動〈63〉
昭和40(1965)年12月3日、松下幸之助はPHP研究所(京都東山山麓・真々庵)における研究会で、松下政経塾の原型となる「新政治研究所」について初めて検討しました。この時の
研究活動と真々庵の役割の変化――PHP活動〈62〉
熱海会談が開かれた昭和39(1964)年7月以降は、PHP研究所の研究活動にさまざまな変化が表れるようになりました。これまでのような活動ができなくなった面も見られ、やがて京都
実業家を引き合わせた「辯天様」――PHP活動〈61〉
真言宗系の新宗教である辯天宗は、松下幸之助が交流を持った宗教団体でした。昭和39(1964)年4月29日に真々庵で行われた『LIFE』誌のインタビューで辯天宗について質問され
国立京都国際会館で協働した高山義三――PHP活動〈60〉
京都市長、国立京都国際会館館長を歴任した高山義三(ぎぞう)氏(1892~1974・写真)は、京都市の観光事業を中心に、松下幸之助と長年にわたって交流を持った人物でした。晩年に