松下幸之助のPHP活動

南禅寺管長による出張講義――PHP活動〈33〉

 南禅寺近くにPHP研究所を設けた松下幸之助は、昭和37(1962)年、南禅寺管長の柴山全慶氏に真々庵へ来てもらい、10回にわたり、仏教の出張講義を受けたことがありました。通常

松下幸之助のPHP活動

松下幸之助がもっとも懇意にした経営学者 平井泰太郎――PHP活動〈32〉

 戦前から松下幸之助と交流した平井泰太郎氏は、明治29(1896)年10月、神戸市生まれ。父の経営する紡績会社が業績不振のため他社に吸収合併されたことが、経営学を志すきっかけに

松下幸之助のPHP活動

昭和の真言宗の代表的人物 野澤密全――PHP活動〈31〉

 高野山において若くして頭角を現した野澤密全氏は、明治31(1898)年9月、香川県生まれ(※1)。11歳で親元を離れて奈良県の信貴山(しぎさん)で寺に入り、14歳の時に僧侶と

松下幸之助のPHP活動

あわや3億円の盗難事件――PHP活動〈30〉

 京都東山山麓、真々庵において研究活動を再開してから1周年を翌日にひかえた昭和37(1962)年8月17日、PHP研究所において盗難事件が発生しました。当日、松下幸之助は、朝9

松下幸之助のPHP活動

ラジオ放送の録音を聴取――PHP活動〈29〉

 真々庵時代におけるPHP研究所の研究活動では、しばしばラジオ放送の録音が使用されていました。所員がオープンリールでラジオ番組をあらかじめ録音しておき、松下幸之助と研究員でその

松下幸之助のPHP活動

根源社「建立の式典」――PHP活動〈28〉

 真々庵において、昭和37(1962)年4月18日、根源社(こんげんのやしろ・写真)の完成を記念して、建立の式典が挙行されました。松下幸之助は、伊勢神宮の内宮の正殿と同じ意匠で

松下幸之助のPHP活動

第2室戸台風と月見の宴――PHP活動〈27〉

 真々庵において研究活動が再開されて後、昭和36(1961)年9月24日に「PHP研究所開所披露並びに月見の宴」が開催されることになりました。松下電器の松下正治社長を含む同社の

松下幸之助のPHP活動

真々庵開所式と第1回朝食会――PHP活動〈26〉

 昭和25(1950)年8月以降、活動を主に月刊誌『PHP』発行のみに留めていたPHP研究所は、松下幸之助が松下電器社長を退いた後、昭和36(1961)年8月18日に研究活動を

松下幸之助のPHP活動

昭和29年『PHP』休刊の危機――PHP活動〈25〉

 昭和29(1954)年8月、月刊誌『PHP』は長期休刊となることが決定されました。同月25日に松下幸之助が顧問の三辺長治氏に宛てた手紙には、「今まで月刊で出しておりましたPH

松下幸之助のPHP活動

PHP沖縄研究所の設立――PHP活動〈24〉

 PHP研究所は昭和26(1951)年、沖縄への進出を計画したことがありました。今日『PHP沖縄研究所設立要請書』という資料が残っています。

松下幸之助のPHP活動

「緊急経営方針」によるPHP運動の「第二段階」――PHP活動〈23〉

 松下幸之助は、松下電器産業株式会社社長として、昭和25(1950)年7月17日「緊急経営方針」を社員に発表しました。「朝鮮の嵐が身近に吹きすさぶ現状」(=朝鮮戦争)を踏まえて

松下幸之助のPHP活動

「人間宣言」と18人の有識者の短評――PHP活動〈22〉

 月刊誌『PHP』は第50号(昭和26〔1951〕年9月発行)を記念して、松下幸之助による「人間の天命」という文章を掲載しました(※1)。幸之助は、「PHPの立場から、一つ人間