松下幸之助のPHP活動

ラジオ放送の録音を聴取――PHP活動〈29〉

 真々庵時代におけるPHP研究所の研究活動では、しばしばラジオ放送の録音が使用されていました。所員がオープンリールでラジオ番組をあらかじめ録音しておき、松下幸之助と研究員でその

松下幸之助のPHP活動

根源社「建立の式典」――PHP活動〈28〉

 真々庵において、昭和37(1962)年4月18日、根源社(こんげんのやしろ・写真)の完成を記念して、建立の式典が挙行されました。松下幸之助は、伊勢神宮の内宮の正殿と同じ意匠で

松下幸之助のPHP活動

第2室戸台風と月見の宴――PHP活動〈27〉

 真々庵において研究活動が再開されて後、昭和36(1961)年9月24日に「PHP研究所開所披露並びに月見の宴」が開催されることになりました。松下電器の松下正治社長を含む同社の

松下幸之助のPHP活動

真々庵開所式と第1回朝食会――PHP活動〈26〉

 昭和25(1950)年8月以降、活動を主に月刊誌『PHP』発行のみに留めていたPHP研究所は、松下幸之助が松下電器社長を退いた後、昭和36(1961)年8月18日に研究活動を

松下幸之助のPHP活動

昭和29年『PHP』休刊の危機――PHP活動〈25〉

 昭和29(1954)年8月、月刊誌『PHP』は長期休刊となることが決定されました。同月25日に松下幸之助が顧問の三辺長治氏に宛てた手紙には、「今まで月刊で出しておりましたPH

松下幸之助のPHP活動

PHP沖縄研究所の設立――PHP活動〈24〉

 PHP研究所は昭和26(1951)年、沖縄への進出を計画したことがありました。今日『PHP沖縄研究所設立要請書』という資料が残っています。

松下幸之助のPHP活動

「緊急経営方針」によるPHP運動の「第二段階」――PHP活動〈23〉

 松下幸之助は、松下電器産業株式会社社長として、昭和25(1950)年7月17日「緊急経営方針」を社員に発表しました。「朝鮮の嵐が身近に吹きすさぶ現状」(=朝鮮戦争)を踏まえて

松下幸之助のPHP活動

「人間宣言」と18人の有識者の短評――PHP活動〈22〉

 月刊誌『PHP』は第50号(昭和26〔1951〕年9月発行)を記念して、松下幸之助による「人間の天命」という文章を掲載しました(※1)。幸之助は、「PHPの立場から、一つ人間

松下幸之助のPHP活動

「観光立国の弁」とその反応――PHP活動〈21〉

 昭和29(1954)年、松下幸之助は、『文藝春秋』5月号に「観光立国の弁」と題する一文を発表しました(上写真)。これに関連する資料がPHP研究所に残されており、論考を発表する

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初期PHP研究所 最後の顧問 三辺長治――PHP活動〈20〉

 初期のPHP研究所で、もっとも長く顧問を務めた人物に、三辺長治(みなべ・ちょうじ、1886~1958)という人がいました。富山県出身で、金沢の第四高等学校に進学し、当時同校の

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東京と名古屋のPHP定例研究講座――PHP活動〈19〉

 昭和23(1948)年2月23日、大阪市中之島の大阪府立図書館で第1回PHP定例研究講座が開催されました。これは松下幸之助が中心となって作成した「PHPのことば」を発表して聴

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幻の商品「ハピーライト」――PHP活動〈18〉

 初期のPHP研究所では、活動資金を獲得するため、停電時の非常灯「ハピーライト」を販売しました(写真)。『PHP』昭和23(1948)年2月号40頁では、「今日の生活を現実に豊