松下幸之助のPHP活動

研究活動と真々庵の役割の変化――PHP活動〈62〉

 熱海会談が開かれた昭和39(1964)年7月以降は、PHP研究所の研究活動にさまざまな変化が表れるようになりました。これまでのような活動ができなくなった面も見られ、やがて京都

松下幸之助のPHP活動

実業家を引き合わせた「辯天様」――PHP活動〈61〉

 真言宗系の新宗教である辯天宗は、松下幸之助が交流を持った宗教団体でした。昭和39(1964)年4月29日に真々庵で行われた『LIFE』誌のインタビューで辯天宗について質問され

松下幸之助のPHP活動

国立京都国際会館で協働した高山義三――PHP活動〈60〉

 京都市長、国立京都国際会館館長を歴任した高山義三(ぎぞう)氏(1892~1974・写真)は、京都市の観光事業を中心に、松下幸之助と長年にわたって交流を持った人物でした。晩年に

松下幸之助のPHP活動

17万部が贈呈された『道徳は実利に結びつく』――PHP活動〈59〉

 昭和40(1965)年4月13日に真々庵で開かれた研究会で、松下幸之助は太平洋戦争の終結と昭和天皇について述べました。「戦争の終結にしても天皇がいなければなされなかったかもし

松下幸之助のPHP活動

国立京都国際会館 初代理事長に就任――PHP活動〈58〉

 国立京都国際会館は、世界に通用する国際会議場が日本にも必要であるとして、岸信介内閣が昭和32(1957)年11月8日に建設を閣議決定しました。理事長には「海外にも名の通った実

松下幸之助のPHP活動

太田垣士郎との交流と追悼――PHP活動〈57〉

 太田垣士郎氏は明治27(1894)年2月、兵庫県城崎郡城崎町生まれ。京都帝国大学経済学部を卒業後、阪神急行電鉄で小林一三氏の薫陶を受け、後に関西電力社長に就任して黒部川第四発

松下幸之助のPHP活動

松下政経塾の原型「新日本政治研究所」の発表――PHP活動〈56〉

 昭和41(1966)年8月24日、真々庵で行われた研究会で松下幸之助は「この前に野田(一夫)さんに聞いたけど、……大学生が十人寄って将来の話をした

松下幸之助のPHP活動

パンフレット『政治に生産性を!』――PHP活動〈55〉

真々庵において研究活動を再開してからしばらくの間、研究テーマは宇宙根源の力や宗教、人間性などが中心でした。松下幸之助は昭和38(1963)年8月13日の研究会で、「社会面から追

松下幸之助のPHP活動

野村吉三郎の逝去――PHP活動〈54〉

 戦前から和歌山県人会で交流があった元海軍大将の野村吉三郎氏は、松下幸之助が最も尊敬した人物の一人でした。PHP研究所の記録にも、しばしば野村氏の名前が見えます。

松下幸之助のPHP活動

『PHP』誌の編集上の改善――PHP活動〈53〉

 活動を主に『PHP』誌発行のみにとどめた昭和25(1950)年8月以降、『PHP』誌の編集は、ほとんど錦茂男所員によって行なわれてきました。真々庵において研究活動を再開してか

松下幸之助のPHP活動

文章の書き方に関する幸之助の指示――PHP活動〈52〉

 真々庵の開所以降、『PHP』誌や他社の雑誌に掲載する松下幸之助の文章は、主にPHP研究所の研究員が執筆していました。幸之助は、その内容と共に書き方についても指示を出した様子が

松下幸之助のPHP活動

『PHP』誌の書店への展開再開――PHP活動〈51〉

 初期の『PHP』誌は取次を通じて書店へ配本されることもありましたが、昭和25(1950)年7月17日に活動を主に『PHP』誌発行のみにとどめて以降は、書店向けの出荷はごく一部