松下幸之助のPHP活動

松下幸之助の所長退任――PHP活動〈81〉

 昭和42(1967)年11月、京都駅八条口にPHP研究所のビルを構えて以降、松下幸之助は月におよそ5~10回の頻度で来所していました。昭和44(1969)年の2月は体調不良だった

松下幸之助のPHP活動

『道をひらく』の発刊――PHP活動〈80〉

 昭和24(1949)年7月1日発行の月刊誌『PHP』第27号から、松下幸之助は表4(裏表紙)に短い文章を無署名で連載しました。内容について「世間の動きやら、身辺の出来事などから感

松下幸之助のPHP活動

ミニチュア版『道をひらく』――PHP活動〈79〉

 松下電器テレビ事業部門は、ナショナルテレビ生産1,500万台を記念して、大阪万博松下館に出展したタイムカプセルの模型と3.1×2.3センチのミニチュア版『道をひらく』(写真)を作

松下幸之助のPHP活動

大阪万博に松下館を出展――PHP活動〈78〉

 昭和45(1970)年3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されました。松下グループは松下館を出展しており、PHP研究所も協力し

松下幸之助のPHP活動

再会を約束したレイモン・アロン――PHP活動〈77〉

 フランスの社会学者・哲学者であったレイモン・アロン氏(Raymond Aron・写真)は、昭和45(1970)年10月24日に京都東山山麓の真々庵に来庵して松下幸之助と対談しまし

松下幸之助のPHP活動

クーデンホーフ=カレルギーとの対談――PHP活動〈76〉

 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー氏(Richard Coudenhove-Kalergi・写真)は昭和45(1970)年10月23日、夫婦で京都東山山麓の真々庵に来庵しまし

松下幸之助のPHP活動

ハーマン・カーンとの面会――PHP活動〈75〉

 英文版『PHP』誌が昭和45(1970)年9月に創刊となったことを受け、翌10月に松下幸之助は海外の知識人と対談する機会を設けました。続けて複数の国外の有識者と対談したことは珍し

松下幸之助のPHP活動

御井敬三の飛鳥保存運動――PHP活動〈74〉

 全盲の鍼灸師であった御井敬三氏(写真)が最初にPHP研究所を訪れたのは、昭和43(1968)年7月3日です。松下幸之助によれば、元々は当時松下電器副社長だった高橋荒太郎氏を担当し

松下幸之助のPHP活動

立花大亀による『般若心経』講義――PHP活動〈73〉

 大徳寺の管長代務などを務めた立花大亀氏は、松下幸之助と長く交流を保った臨済宗の僧侶でした。初めて会ったのは、昭和27(1952)年9月「京都のある有名な骨董屋さんの御茶席」であり

松下幸之助のPHP活動

英語版『PHP』誌の創刊――PHP活動〈72〉

 英語版『PHP』誌の創刊に向けてPHP研究所に国際部が設置されたのは、昭和44(1969)年5月10日でした。担当として3名が記録に残っています。5月26日、京都本部3階会議室に

松下幸之助のPHP活動

アポロ11号の月面着陸に意見広告――PHP活動〈71〉

 昭和44(1969)年7月20日、アメリカのアポロ11号が月面着陸に成功しました。これを受けて、松下幸之助は「PHP研究所創設者(Founder of PHP Institute

松下幸之助のPHP活動

センチュリー作戦の展開――PHP活動〈70〉

 月刊誌『PHP』を100万部に向けて普及する活動は、「センチュリー作戦」と呼ばれました。これは"明治元(1868)年10月23日、明治天皇即位による改元が行われてから満100年に