松下幸之助のPHP活動

財団法人PHP研究所の構想――PHP活動〈89〉

 PHP研究所は昭和48~9(1973~1974)年ごろ、財政基盤の確立をはかると同時に、研究部門を独立させて財団法人にする構想を練っていました。今日残された資料から概要を知ること

松下幸之助のPHP活動

月刊誌『PHP』300号記念特大号――PHP活動〈88〉

 月刊誌『PHP』は昭和48(1973)年5月号で通巻300号を迎えました。これは「300号記念特大号」とされ、内容、形式共に特別の仕様となっています。

松下幸之助のPHP活動

『小さいサムライたち』の発刊――PHP活動〈87〉

 昭和46(1971)年から、PHP研究所は一般書籍の発刊を開始しました。吉岡たすく著『小さいサムライたち』(写真)について、発刊以前の記録が残っています。

松下幸之助のPHP活動

錦茂男所長の「雲水修行」――PHP活動〈86〉

 松下幸之助は昭和47(1972)年8月1日に『人間を考える』を発刊しました。発刊の日にPHP研究所に来所し、所員に講話をしています(※1)。

松下幸之助のPHP活動

谷川徹三の賛同――PHP活動〈85〉

 松下幸之助は昭和47(1972)年8月1日に『人間を考える』を発刊しました。『人間を考える』には、さまざまな書評が寄せられ、中でも幸之助は哲学者の谷川徹三氏(1895-1989・

松下幸之助のPHP活動

『人間を考える』の発刊――PHP活動〈84〉

 真々庵での推敲作業を終え、松下幸之助が『人間を考える』を脱稿したのは、昭和46(1971)年12月8日でした。その後は約2年間、体調を崩したままになります。

松下幸之助のPHP活動

『人間を考える』の推敲――PHP活動〈83〉

 松下幸之助は、昭和45(1970)年の前半、京都駅八条口のPHP研究所のビルや、京都東山山麓の真々庵で月に数回「研究会」を開催していました。同年8月以降になると、『人間を考える』

松下幸之助のPHP活動

所長退任の記者発表――PHP活動〈82〉

 昭和46(1971)年3月2日にクラブ関西で「機械記者クラブ会見」が開かれました(速記録No.1260)。会見で松下幸之助は、まず景気の見通しや取るべき処置など日本経済の話から始

松下幸之助のPHP活動

松下幸之助の所長退任――PHP活動〈81〉

 昭和42(1967)年11月、京都駅八条口にPHP研究所のビルを構えて以降、松下幸之助は月におよそ5~10回の頻度で来所していました。昭和44(1969)年の2月は体調不良だった

松下幸之助のPHP活動

『道をひらく』の発刊――PHP活動〈80〉

 昭和24(1949)年7月1日発行の月刊誌『PHP』第27号から、松下幸之助は表4(裏表紙)に短い文章を無署名で連載しました。内容について「世間の動きやら、身辺の出来事などから感

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ミニチュア版『道をひらく』――PHP活動〈79〉

 松下電器テレビ事業部門は、ナショナルテレビ生産1,500万台を記念して、大阪万博松下館に出展したタイムカプセルの模型と3.1×2.3センチのミニチュア版『道をひらく』(写真)を作

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大阪万博に松下館を出展――PHP活動〈78〉

 昭和45(1970)年3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されました。松下グループは松下館を出展しており、PHP研究所も協力し